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目指せ「旅慣れ」!30代サラリーマンが旅についてあれこれ綴ります。

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【読書】沢木耕太郎「深夜特急」⑤/旅の一生

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紀行文学の名作・沢木耕太郎「深夜特急」の第5巻をご紹介します。旅はついにヨーロッパへ!そして、<私>の旅に対する考えが変わり始めます……。

 

 

前回ご紹介した第4巻ではようやく乗り合いバスの旅が開始。インドからパキスタン、アフガニスタンを経由してイランのイスファハンまで到達しました。

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第5巻では、ヨーロッパへ突入します。

 

トルコ/アジアからヨーロッパへ

イスファハンからバスでテヘランへ戻った<私>。

テヘランに宿泊するつもりでしたが、次のバスが1週間後ということを聞いて、トルコのエルズルム行きのバスに飛び乗ります。

ここでも、運賃の値下げに成功しましたが、「交渉慣れ」というより「交渉擦れ」してきたような自分の姿に嫌悪感を覚えてしまいます。

加えて、極力お金を使わずに過ごそうとする「倹約強迫症」も重症になってきます。

これは、時間は無制限だけど資金に限りがある旅で、旅が終わることへの恐怖から来るものでした。

 

記述に100ページ以上割かれているトルコパートで、私が最も好きなのは、黒海を見るために立ち寄ったトラブゾンで出会った一人の若者とのエピソードです。

<私>は青年に声をかけられ、片言の会話で街をぶらぶらと案内してもらうことになります。

一日付き合ってもらった別れ際、お礼をしたいと考えた<私>は若者にほしいものを聞きます。

その答えは「マネー」

<私>は少しがっかりしながらも、がっかりするのは自分勝手だと思い返し、トルコ・リラを取り出します。

しかし、若者は慌てて否定します。

彼が欲しいのは日本のお金だったのです。<私>は誤解を恥ながら百円・十円・五円硬貨を差し出します。若者が選んだのは、五円玉でした。

記念のものだからひとつで充分と言う彼に、ますます自分が恥ずかしくなった<私>は、彼を宿の自室に招きます。

そこで、<私>が若者に見せたのはこれまで通過した国々で使い切らなかったコインでした。それらを、若者にプレゼントしたのです。

「さあ」
私が言うと、彼は考え取っていった。私のつもりでは一種類につき一枚ずつ貰ってもらおうと思っていたが、彼はひとつの国から一枚しか取っていかなかった。それは香港のエリザベス女王の肖像が刻まれている五ドル硬貨だったり、タイの六角形のコインだったりした。それが彼における「メモリー」のためのルールだったのだろう。

~本文中より

外国のコインって持ってるとワクワクしますよね。

それにしても、とても素敵な出会いだと思います。機会があれば、是非真似してみたい……。

その後、<私>はアンカラ、そしてイスタンブールへ向かいます。


しかし、フェリーに乗ったり、流れに任せて怪しげなホテルに連れてこられたり、香港の時と同じようなシチュエーションのはずなのに、湧き立つような興奮がないことに困惑します。

<私>はその理由を次のように分析しています。

だが、恐らく、最大の理由は時間にあった。毎日が祭りのようだったあの香港の日々から長い時間がたち、私はいくつもの土地を経巡ることになった。その結果、何かを失うことになったのだ。
 旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を眼にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。少なくとも、これまでの私だったら、旅を人生になぞらえるような物言いには滑稽さしか感じなかったはずだ。しかし、私もまた、旅は人生に似ているという気がしはじめている。たぶん、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに前に進むことはできない……。
~本文中より

虚しさのようなものを感じながら眠りについたであろう<私>でしたが、翌朝ホテルの外に出ると、すぐそこにはブルー・モスクアヤ・ソフィアがありました。

そして、イスタンブールで過ごすうちに居心地のよさを感じるようになってきます。

その理由として挙げられているのは食事、そして人の親切です。

よくトルコは親日家が多い、と聞きますが、この旅でも日本に好感情をいただいていて、親切な人が多かったようです。

 

4巻では、旅疲れし、人の親切さえ煩わしくなり始めていた<私>でしたが、トルコではいい出会い(もちろん悪い出会いも)があり、街歩きを楽しみます。

しかし、ゴールがすぐそこに迫ってきたことで、4巻からこの5巻にかけてくらいから、“旅行記”というよりは、“旅するという行為に関しての考察”のようなものが増えてきます。

 

ギリシャ/喪失感の正体

いつものとおり、急にイスタンブールからの出発を決めた<私>は、ケシャンを経由して、国境の町イプサラを目指します。


情報を十分にあつめることもなく、突き進む自身の判断に対して、これまで様々な局面を切り抜けてきたという自信によるものだとしつつ、下記のようにも感じています。

旅は私に二つのものを与えてくれたような気がする。ひとつは、自分はどのような状況でも生き抜いていけるのだという自信であり、もうひとつは、それとは裏腹の、危険に対する鈍感さのようなものである。(中略)私は自分の命に対して次第に無関心になりつつあるのを感じていた。
~本文中より

国境事務所へ向かうタクシーでも、値切り癖を発揮しつつ(乗っているうちに反省して、結局は元値を支払うまでがお約束)<私>は無事、ギリシャへ入国します。

テサロニキ経由でアテネへたどり着きますが、「ここ」という場所を見つけられず、物足りなさを感じてしまいます。

ここで<私>は、イスタンブールで出会った一人の男との会話を思い出します。

いわく、<私>が通ってきたトルコまでの国の人々はみな「茶」を飲んでいて、どこも「チャ」とか「チャイ」とか発音していました。
その話を受けて、ギリシャからはコーヒーを飲むので、「茶を飲む国=アジア=仲間なのだ」と主張する男に対して、<私>はイギリスも紅茶を好むことを指摘しますが……

その指摘への男の返答が非常に面白いです。

それは、英語もフランス語もドイツ語も「茶」を示す単語は、Tで始まるが、アジアではCのチャイを飲んでいるというものでした。

 

確かに!

文化の伝播という意味では、もしかしたら有名な話しなのかもしれませんが、面白い話しですね。

あと、通ってきた国々が(それぞれ飲み方に差異がありながらも)みんな「茶」を飲んでいて、発音が近いというのは、<私>が点ではなく、線で旅をしてきたからこその視点ですね。

 

さて、<私>は自身が感じる物足りなさや、何かが起きそうで起こらないことを、これまでとは違う土地に来たからだと考えます。

つまり、アジアからヨーロッパへ、イスラム教圏からキリスト教圏へ、「C」の茶の国から「T」の茶の国に来たのでした。

 

<私>はアテネに覚える違和感が、ギリシャ全体に言えることなのかどうかを確かめるため、ペロポネソス半島に向かいます。

ミケーネスパルタオリンピアと古代の都市をまわり、アルゴスに至った<私>は、様々な出来事に対して「この状況にはどこかで遭ったことがある」「この経験はどこかでしたことがある」と感じていることに気づきます。そして、変わったのが、土地でもなく、自分でもなく、旅そのものであることに思い至るのです。

旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。
~本文中より

始めは「旅を人生になぞらえるのは滑稽だ」と思っていた<私>でしたが、変わりゆく自分の意識を前に、考えを改めます。

そういわれてみると、この「深夜特急」という本自体が、旅行記というよりも「旅の一生」を描いた物語と捉えることができるように思います。

香港やマカオ編では、がむしゃらで熱狂的に刺激的な旅が描かれ、だんだん様々なことに慣れていき、旅の終わりを意識し始めることで、過ぎ去った時間を懐かしむとともに、いつしか変わってしまった自分に喪失感を覚える。

 

30代になり、学生時代・20代のころとの肉体的な違いを意識し始め、かつ老後だとか将来的な不安を感じ始めた私と同じような想いを、この青年期を終えた時点での<私>は感じていたのかもしれません。

 

旅の終わりを意識し始めた<私>。
さぁ、この旅の一生はどのような形で終わるのでしょうか。

 

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